大西洋と太平洋を結ぶ:歴史的な挑戦
北米と南米、そして大西洋と太平洋の結節点であるパナマ運河の建設は、人類史上最も困難なエンジニアリング プロジェクトの一つとして今も語り継がれています。この地は世界貿易の要所として、政治・経済的な思惑が交差し、時にはスキャンダルを巻き起こし、地域の地政学にも大きな影響を与えてきました。今日でも世界の海運貿易、中米クルーズ、そしてパナマ旅行において欠かせない航路であり続けています。
パナマ運河建設:長きにわたる構想
ある者はそれを「無謀な夢」と呼び、ある者は「大胆な賭け」と呼びました。パナマ地峡を切り拓くというアイデアは、16世紀のスペイン国王カルロス5世の時代にまで遡ります。
それから300年以上経った後、このプロジェクトに目をつけたのがフランスの外交官フェルディナン ド レセップスでした。1869年にスエズ運河を成功させた彼は、1879年にパリで国際海運運河会議を主催。米国を含む26カ国の代表を説得し、ナポレオン1世の親族であるリュシアン ボナパルト=ワイズがコロンビア政府*から取得した譲渡権に基づき、パナマに海抜式運河を建設することを決定しました。
*パナマは1903年に米国の支援を受けて独立を宣言するまで、コロンビアの一部でした。
航路を14,000km短縮する、大西洋と太平洋のショートカット
プロジェクトが承認されると、レセップスは全長74km、幅22m、深さ9mの運河を完成させるため、6億フランの資金調達に乗り出しました。
自信に満ち溢れた彼は、メディアを通じて運河を大々的に宣伝しました。建設期間は8年、運河の開通により航路が1万4,000km短縮され、海運業界に莫大な利益をもたらすと主張したのです。しかし結局、運河の完成には32年の歳月を要し、その建設過程はフランスの政財界に消えない傷跡を残すスキャンダルに見舞われることとなりました。
次々と立ちはだかる困難
1881年2月に予備工事が始まりました。レセップスは必要な資金を十分に集めることができませんでしたが、楽観的な姿勢を崩さず、「スエズの成功を再現できる」と固く信じていました。しかし、パナマの状況はスエズとは全く異なっていたのです。彼は、ギュスターヴ エッフェルらプロジェクトに携わった技術者たちの助言に耳を貸しませんでした。技術者たちは、パナマの地形には海抜式よりも安価で適している「閘門(こうもん)式運河」を提案していました。
さらに、豪雨による土砂崩れに加え、マラリアや黄熱病の流行がプロジェクトを直撃しました。最終的に、この建設工事で約25,000人の労働者が命を落としたと推定されています。
破産とパナマ運河スキャンダル
工事は遅れ続け、1884年には計画された掘削作業のわずか10分の1しか進んでいないにもかかわらず、会社の資金は底をつきました。
掘削を継続するため、レセップスは「富くじ付き債券」を発行し、一般の小口投資家から新たな資金を募ることを決意します。しかし、これには法律の改正が必要でした。そこで彼は国会議員や新聞社に近い実業家たちを抱き込み、所有する新聞で債券を宣伝させ、政治家に賄賂を贈って法改正を後押しさせました。1888年にようやく法律は成立し、翌年にはエッフェルの助言を容れて海抜式から閘門式への変更を決めましたが、時すでに遅く、1889年に会社は倒産。8万5,000人の投資家が破産に追い込まれました。
1891年、政府の要請により背任と詐欺の調査が開始され、政治界全体を巻き込む汚職事件へと発展しました。フェルディナン ド レセップスとその息子シャルルには禁錮5年の判決が下されましたが、レセップスは高齢であったことと手続き上の不備により、実際に服役することはありませんでした。
運河の完成と開通:フランスから米国へ受け継がれたバトン
20世紀に入り、会社の株式が米国に売却されたことで工事が再開されます。コロンビアは米国からの圧力を受け、パナマ運河のプロジェクトを米国に譲渡。1903年11月18日に「ヘイ ブナウ ヴァリラ条約」が締結され、米国が運河の完全な支配権を握りました。
1903年から1913年にかけて建設が進められ、1914年8月15日、ついにパナマ運河が開通しました。しかし、当時まさに第一次世界大戦に突入したばかりだったフランスでは、この歴史的な瞬間が大きな注目を集めることはありませんでした。
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